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掲載日:2017-03-22

歴史に学ぶ・・・戦国時代と企業経営

織田信長の栄光と挫折 事業承継の難しさ

 戦国時代は織田信長が終止符を打ったと言われています。
 しかし中には武田信玄や上杉謙信の方が織田信長より強く、織田信長は彼らが先に死ぬことによって天下人になったと言う人もいます。しかしこのような人は歴史の流れを本当に理解していない人と思われます。確かに個々の豪傑は武田や上杉にたくさんいたと言われています。なぜなら武田氏は清和源氏の名門であり、昔から甲斐の国の守護で、武田信玄の時代に戦国大名化したと言われています。上杉謙信も元は長尾景虎といい、代々越後の守護代でしたが、主筋の上杉氏が関東の地を北条氏に奪われ、越後に逃げてきました。そこで室町幕府の関東責任者ともいうべき関東管領職を景虎に譲り、上杉謙信となりました。
 武田・上杉とも甲斐・越後の武士団の棟梁であり、多くの在地の土豪を従えていました。それに対して織田信長の軍団は秀吉を始め、武士というより傭兵に近い集団でした。ここから尾張武士は金で買われた弱兵で、武田の騎馬兵や上杉謙信のカリスマ的指揮に従う越後兵に絶対勝てないと思った人も多いと思われます。講談話ならそれも良いですが、物事の本質を知るには不足です。
 尾張の傭兵がなぜ天下を取ったのか? 傭兵だからこそできた24時間、365日の戦争ではないでしょうか。反対に武田も上杉も、農民兵が多く、種まき、稲刈り時には戦争ができなかったことが最大の敗因ではないかと思います。それに対して傭兵も別の言い方、職業軍人と言い換えれば、1年中どこでも戦争ができる軍隊と言えます。他の戦国大名は民兵組織みたいなものですから、職業軍人主体の正規軍化している織田軍にかなうはずがないと言えます。
 企業経営的に見れば、一騎当千の優秀な人材1人よりも、凡人の社員を徹底した社員教育をほどこし育てた会社の方が成長する所以かもしれません。
 1561年関東管領上杉謙信が関東の反北条方を含め、10万の軍勢で、北条の本拠地小田原城を1ヶ月以上攻めましたが、北条方は篭城戦をとり、一歩も城を出ませんでした。背後での武田信玄の川中島への出陣もありましたが、上杉軍は稲刈りのため包囲を解き、それぞれ自領に引きかえざるをえませんでした。
 それから30年後、織田軍の後継者になった豊臣秀吉率いる20万の軍勢は、小田原城を包囲しました。北条軍は昔通りに篭城戦を取りましたが、傭兵化している秀吉軍は、小田原城の眼前に城を築き、立ち去る気配もありませんでした。根を上げた北条軍は降伏し、早雲以来5代100年関東に覇を唱えた北条家は滅亡しました。このことは、成功体験に酔い、時代に流れを読めない企業は潰れていくことを教えています。
 織田信長は、傭兵制度による職業軍人化、鉄砲や長槍の使用による個人戦から集団戦へ、楽市・楽座による市場経済化、比叡山焼き討ち、一向宗討伐のように宗教と政治の分離等々、中世から近世への条件、合理的思考を切り開いた稀有な人材です。
 しかし、織田信長の唯一の失敗は事業承継にあります。「本能寺の変」の成功、あるいは明智光秀に謀反を起こさせた最大の動機は、「織田信忠」です。確かに本能寺には森蘭丸以下50名程度の信長の小姓しかいませんでしたが、それだけでは明智光秀は謀反を起こさなかったでしょう。明智が謀反を起こしたのは、「信忠」がわずか1500名の親衛隊しかつれずに、本能寺の近くの二条城にいたということです。
 なぜなら当時信長は家督を信忠に譲り、信忠は尾張・岐阜・信濃・甲斐の4国を統治しており、たとえ信長を殺したとしても、信忠が健在である限り、当時24万と言われた織田軍を何の障害もなく動員することができたはずで、絶対に明智に勝ち目はないことは明白でした。信長・信忠同時殺害、織田軍の分解、各地の反織田軍との同盟というシナリオ以外に明智の謀反はありえませんでした。信長・信忠同時殺害ということがあったので、秀吉が次の天下人となれたのであり、信忠が存命していれば、秀吉の出番もなく、もちろん家康の出番もなかったのです。
 ここまで整理してみると、やはり織田信長は本能寺で亡くなった方がよかったのかもしれません。織田信長は、「天下布武」の名目で、独裁的、軍事的であり、合理的でありすぎました。明智光秀の本能寺の変については、いろいろな陰謀説が古今東西語り継がれています。しかし、織田信長49歳に対して明智光秀67歳が最大の原因ではないでしょうか。
 有能であれば取り立て、無能であれば、追放する織田信長に明智光秀はまだ15歳の嫡男の行く末を考え、京都に信長・秀忠がわずかな旗本衆としかおらず、堺に同盟軍の家康が旅行中、中国地方に豊臣秀吉、北陸に柴田・前田軍等という絶妙の一瞬、空白に人生を賭けたのではないでしょうか?
 結果論的に無謀な「本能寺の変」とよく言われますが、本能寺の変に加担した京極氏、若狭武田氏や躊躇した親族である細川氏、筒井氏、関係が深かった四国の長宗我部氏はもとより織田軍に攻め込まれていた上杉、毛利等と連携する可能性を考慮すれば充分採算はあったのです。
 誤算はただ一つ。毛利の大軍と交戦中の豊臣秀吉軍3万のわずか7日間の「中国大返し」です。天下の流れを見て、勝ち馬に乗ろうとした多くの織田軍の将軍が「信長の弔い合戦」という大義名分を掲げて、中国路を京へ駆け上がってくる秀吉軍に、日和見中だった織田軍が雪だるま式に合流したのです。
 日本一の会社、業界NO1と言い続け社員を酷使しても、社員はついていけない。社員は会社を日本一にするため、上場するために働いているのではない。社員は家族を守るため、生活のために第一義に働いているのです。明智光秀は疲れたのです。

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